不謹慎な経済学 田中秀臣著

著者の最新刊「AKB48の経済学」の中でこの2008年2月初版の「不謹慎な経済学」に触れていたので、気になり読んでみた。
タイトルにある「不謹慎」という文字が気になるが、同書を執筆した著者の意図は一般の人々に「経済学」への正しい認識を持ってもらおうとする面と、日本経済の中で繰り広げられる様々な主張や論調に潜む誤り、もっといえばトンデモを明らかにしそれを正そうとするものであり、このことが同書が取り上げる様々なテーマへの著者の主張がややもすると「不謹慎」なものになっていると皮肉ったものじゃないかと思います。
さて、同書は16章からなっており、テーマも世界のセレブ「パリス・ハミルトン」、テロリスト、ニートや雇用問題に昭和恐慌までと多岐に飛んでおり、しかも各章が12〜15ページとコンパクトにまとめられているので、どこからでも読める構成になっている。

同書を読んで思った点は、ここで取り上げられているテーマ(諸問題)への様々な専門家の主張が意外と経済学的な思考・論理ではないことに気付くということである。
第7章の「経済の安定は攻撃的なナショナリズムを和らげる」で著者が指摘している「理念」と「現実」に関する内容が大変興味深かった。
戦時期の「昭和研究会」を取り上げ、当時には右翼と左翼が渾然一体となった「理念」が存在し、「現実」を見ることをしなかった知識人の遺産が今日まで尾を引いており、哲学者の三木清日中戦争について「戦争の原因究明という『現実』の検証よりも、歴史の流れという『理念』で日中戦争を解釈することが重要だ」と明言している点に注文した哲学者・野口哲生の『帝国の形而上学』が有意義な論点であるとしている。
つまり、三木清は「日本と中国の戦争状態がどんな理由で生じたかを検証するよりも、もっともらしい理念で戦争を脚色する方が有意義だ」と考えていたわけであると指摘している。
この「理念」優先のイデオロギーが現在でも色濃く残っており、例えば「小泉改革市場原理主義格差社会の生みの親」という「理念」が先行し、誰もその「現実」そのものを説明しようとしていないと著者は言う。
この著者の指摘にはなるほどと思う。そして、第13章で石橋湛山の「東洋経済」編集長時の社説を紹介しているのだが、これが著者も言うように現代にも通用する教訓だと思い、ここでもそれを以下に引用させていただきます。

「記者の観るところを以ってすれば、日本人の一つの欠点は、余りに根本問題のみに執着する癖だと思う。この根本病患者には二つの弊害が伴う。第一には根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにもかかわらず、その眼は常に一つの根本問題に囚われている。第二は根本問題のみに重点を置くが故に、改革を考える場合にはその機構の打倒乃至は変改のみに意を用いることになる。そこに危険があるのである。
これは右翼と左翼とに通有した心構えである。左翼の華やかなりし頃は、総ての社会悪を資本主義の余弊に持っていったものだ。この左翼の理論と戦術を拒否しながら、現在の右翼は何時の間にかこれが感化を受けている。資本主義は変改されねばならぬであろう。しかしながら忘れてならぬことは資本主義の下においても、充分に社会をよりよくする方法が存在する事、そして根本問題を目がけながら、国民は漸進的努力をたえず払わねばならぬことこれだ」

結局のところ、現在の日本経済を取り巻く諸問題である長引く不況、それに伴う雇用やニートなどの社会問題に対して世間一般に共有されている主張を見ていると、意外と「現実」への充分な検証と対策がないままに「理念」だけが先行していることが多いのではないかと思ってしまう。
第15章でサッカーワールドカップやオリンピックの経済効果の真偽を取り上げているが、ここで著者が「マクロ経済要因(一国経済の動向を財政・金融政策の関連からこと)の視点の欠如」をキーワードと指摘しているように、経済学者やエコノミストなどと称する専門家の中にもこのマクロ経済の視点がないままに主張や批判をしている方々が多いのが日本経済の実情じゃないかと思う。

最後に同書を初めとする経済学に関する良書に出会うことで思うのは、「経済(学)は国民一人一人の幸福のため」という本来の目的を忘れてはいけないということ。この目的を置き去りにして批判や主張することのほうが、「不謹慎」だと思うことに多くの人に気付いてほしいと思う次第です。